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青春ものの小説ブログです

Over 2

洛山の寮の部屋で電話を切った赤司は、相部屋の同室の者に「少し出かけてきます」と声をかけて外に出た。夕刻、学生寮から出て裏山の裏道を上ると、視界が開ける場所がある。散策の場所に決めている地点だった。見降ろすと、京都の東山の街並みと東寺の五重塔が見える。あの場所もこんな崖の上だったな、と赤司は思う。ポケットから北海道のネットで印刷した地図を取り出す。スマホの画面では書きこみができないから、印刷したもので検討する。行ったのは夏のはじめだった。

あいつの所在を突き止めたのは、ウィンターカップの終わった後だった。借金逃れで転々と住所を変え、東京の近郊の古ぼけたアパートにその中年の男は住んでいた。あのトレーラーの運転手だった。もともと賭博にはまって多額の借金をこしらえて、首が回らずトレーラーをあの時高田晴美の言うとおりに動かすことを承諾したのだった。もうあれから十年はすぎていた。彼はしかし警察には書類送検だけで法の裁きは何も受けず、こじんまりとした小市民生活を営んでいた。独身、身よりはほとんどなし。そういう地方から出てきたおこぼれものの吹き溜まりの一人だった。赤司は遠目にスーパーの袋を下げて歩く男を目視で確認しただけである。会って話すつもりは最初からなかった。高田晴美の時のようにおびき出して殺すのも、赤司には面倒に思えた。自分の気持ちが萎えたのではない。自分の知り合いでも何でもない男。できれば他人のまま葬りたい。そう思った。接触すれば足がつくのも理由のひとつだったが、気持ち的に腫物に障るような感じがしたからだった。母を殺した理由がはっきりとあった高田晴美に対しては、あの時燃えるような殺意を感じたのだが、この男はただ単に借金の片に母の殺害に手を貸しただけだという気持ちがあった。それでもその存在は打ち消したい。そういう、赤司の心の染みか影みたいな存在がその男の存在だった。

人の気持ちを動かすことは自分には無理だ。でもあのウィンターカップの試合中で、自分はアンクルブレイクを仕掛けたつもりはなくても、派手に敵選手たちは転んでいた。あれが自分にはできないか?もう一度。木立の中で、赤司は精神を統一してみようとした。しかし念じたところで、林の中の木の葉ひとつ落ちなかったし、「彼」も赤司には何も話しかけてこなかった。「彼」には「消えろ」と言ったこともあったのだった。こういう時には出てこないのか。赤司は唇を噛んだ。赤司は「彼」の協力で、この男を北海道の崖の上から突き落とすことを今計画している。偶然学生食堂のテレビで見た番組で、母の日なので母恋駅にやってきました、というバラエティ番組があった。ネットで調べてみると、近くに日本有数の断崖絶壁がある。母恋駅というネーミングで動かされた自分が軽いとは思ったが、北海道の僻地なら警察にもわからないという目論見があった。どうせ殺すならそういう場所がいい。男のアパートからほど近い東京湾に突き落とすだけだと、想定内の出来事でつまらない。あの母のための、一生にもう一度しかない復讐行なのだ。幸い軍資金は父からの通帳振り込みで潤沢にある。詩織の死後おかしくなった赤司を持て余して放任主義になった征臣は、赤司が親の元を離れて京都に行くと言った時から、以前にも増して赤司に冷淡になっていた。愛情の代わりに金さえ与えておけば安心といった態なのであった。だから殺(や)るなら北海道だ。それは桃井には決して言えないことであり、ましてやキセキの仲間らには言えない話だった。今度こそ完全犯罪にしてやる。古賀さんだってもうこの京都にはいないのだし、僕ひとりの裁量でやりきる。その時こそあのおかあさんの魂は浮かばれるんだ。もう古賀が何と言おうと知ったことではない。夏冬連覇でバスケットで日本一にはなれなかったことで、赤司も意地になっていたのか。そうではなくて、赤司自身ももう中学生ではなかった。彼が今考えていることは、自身が日本一になって箔をつけることではなくて、真に母の魂が鎮められることだった。どう考えても母の死にざまはひどすぎた。そして父はそんな母に一顧だにしない。だから自分が死んだ母の喜ぶことをして恨みを晴らす。赤司の今考えていることはそれだった。ウィンターカップで敗北したことで、彼は確かに一皮むけたのだが、しかしまだまだ途上にあった。

その夜、赤司は夢を見た。自分はあの北海道で見た海岸線の端に立っている。どこまでも続く茫漠とした砂浜、その足元に白い木の棺がある。おかあさんの棺だと思って赤司は中を見て驚いた。中に眠っていたのは桃井だった。桃井は棺の中でたくさんの白い百合の花に包まれながら、ゆらゆらと揺れて赤司の目の前からゆっくりと沖に向かって流されていく。風に揺れる百合の花が見えなくなるところで、待ってくれ桃井さん、と大声で叫んだところで目が覚めた。赤司はがば、と起き上がったがまだ深夜だった。同室の者は暗がりで静かな寝息を立てていた。自分は今実際に声に出して叫んだのではなかろうか。赤司はびっしょりと寝汗をかいている頬を掌でなでた。そう言えばこんな小説を最近読んだような気がする。夏目漱石だったか三島由紀夫だったか・・・大学生になった黛からラノベ以外の本も読んでいるんだぜ、と言われて貸されたものだったと思う。

黛はもう引退式を、欠席はしたが過ぎて卒業したが、たまに会うこともあるのだった。どういうつもりか知らないが、黛は時々思い出したように連絡してきた。ほとんど赤司にとっては使い捨てみたいなスカウトだったのに、黛にとってはそうではなかったようだ。気にかかる後輩ということで、彼は赤司にどうしている、と言って会いたいんだけどと言うのだった。そう言われると赤司は何となく断れず、出向いて行って会って話をする。それは黛を試合で利用したという負い目もあったのかもしれない。黛にはもちろん桃井の話はしたことはないし、赤司も自分の桃井への気持ちを黛に相談などするつもりもない。何と言っても「林檎たん」などというキャラが出てくる小説を愛読している黛に、実際の恋愛を相談など考えただけでもおかしい話だった。だからその夢は偶然見たものだ。

赤司は起き上がって部屋の本棚を物色した。黛から貸された本は漱石の「夢十夜」だった。途中まで読んで、そのまましおりを挟んで忘れていた本だった。ページを繰っていくと、「第一夜」にもう今にも死ぬ女に百年墓の前で待っているように言われるという話があった。あいつ、ひょっとしてわかっていて貸したのではないか?黛に母が死んだ時の話はしていないが、母がすでに他界していることはウィンターカップのあとにカフェで話したことがあった。黛の行動にはそんなところがあった。黒子と同じく影の特性がある彼は、人の気づかない影を踏んで生きているようなところがあった。「会いたいんだけど・・・・。」と電話越しに言う黛の湿った声は、そんな感じの日陰の声だった。自分は今そういう影たちに付きまとわれているな、と赤司は思った。そして肝心の、いてほしい影の「彼」は僕の傍にはいない。こんな状態では桃井さんにはとても会えない。桃井さんに会うとすれば、僕が完全犯罪を成し遂げた後でなければならない。桃井に旅行の話をしたのは軽率だったかもしれないが、桃井さんには自分の行動の軌跡をどこかで知っておいてもらいたいと思う気持ちがあった。あの中学の時、クラスの教室で錯視の本を見せびらかしたのも、そうした赤司のデモンストレーションのひとつである。ストーカー的な犯罪心理の一種と言っても過言ではない。それで足がつくかもしれないということよりも、桃井に知っておいてもらいたいという気持ちが弥増さった。それだけ赤司にとって桃井は、母に連なる重大な人間だと言えた。桃井さんにはこれからも僕が殺(と)ってきた獲物をそれとなく見せるさ。「彼」のあいつも、またバスケットの試合中に出てくるに決まっている。猫のようにやつの首根っこを押さえて僕の言うことを聞かせる。あいつは考えてみても、僕に手を貸し続けているんだから、きっと僕に気があるんだ。桃井のことをうらやましそうに言っていたからな。赤司はそう考えると、漱石の「夢十夜」の文庫本のページをぱたんと閉じた。もう顔の汗はひいて、いつも通りの、自己采配の見事な赤司であった。桃井がその犯罪を実行することでどう思うか、赤司の脳裏にはないのであった。そればかりか事情を知れば桃井さんも一緒に喜んでくれると赤司は考えていた。たとえ復讐という言い分があったとしても、犯罪を犯すことに少しも疑いを持たないこと、それはやはり間違いと言える。だからその夢は、赤司の深層心理からの、あるいは「彼」からの警告だったのかもしれない。しかし赤司はそれを考えることはなかった。赤司は本を棚に戻すと、また寝床で横になって寝入ってしまった。