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青春ものの小説ブログです

笥(はこ)詰めの恋 1

洛山高校の物理の時間、教師から余談でシュレディンガーの猫の寓意の話を聞いたとき、赤司征十郎は自分のことだなと思った。その箱の中には猫が存在するという仮定で物を考える。しかし実際には見た者はいない。その猫はもう一人の自分だ。自分であって、自分ではない。自分と呼べるかどうかもわからない。しかし明確に自分とは違う他者だと思う。バスケットボールの試合中に、ゾーンに入ったと自覚したときにだけ「彼」は忽然と現れる。蜃気楼のような存在。そんな者が。

その猫が箱を開けてみるまでは、実際には猫の質量をしているただの電子状態かもしれない、生きているか死んでいるかわからないという話も、彼の気を引いた。いろいろ心理学関係の本も彼はひも解いてみた。自分は多重人格障害ではないと思う。別人格が出て、自分は障害があるとは思わない。それどころか「彼」は自分を助けてくれる。オカルト関係には興味がなかったが、背後霊という者ではないかと疑ったこともある。だがすぐに彼はその考えを捨てた。理由は自分の好みの科学的根拠に薄いということからだった。従って、彼はシュレディンガーの猫が「彼」であると思った。その猫は仮定では生きている状態と死んでいる状態が重なり合っているのだと言う。自分は箱の中にそのような一匹の猫を飼っている。そう思うことにした。

「彼」が最初に現れたのを自覚したのは、優しかった母が死んだすぐあとだった。まだ赤司は小学生だった。父に例のごとく厳しく叱責され、母がするのを薦めてくれたバスケットボールを取り上げる、と言われた夜に「彼」は赤司の枕元に現れた。くやしいかい?だけど我慢するんだよ。「彼」は赤司にそう言った。君はどれぐらいくやしいのかな?喰い殺したいぐらいだよ。そうなんだ。「彼」はそう言うと、母と同じようにやさしく笑った。じゃあ喰い殺すといいよ。君ならいつかできるよ。赤司は「彼」の言葉を聞くと、不思議とすっと胸が楽になった。翌朝からしばらくの間、真面目に勉学に取り組んでいたら、父は折れてバスケットをまたしてもよいと言った。その間赤司がずっと無言だったせいもある。父なりに赤司の成長には気遣っていたのだった。しかし赤司はそれを考えたことはなかった。父は自分の敵であり、母を遠ざけた者だった。 帝光中学に入ったとき、赤司は小学生のころからすでに民間のバスケットクラブに入っていただけのことはあって、すぐにレギュラーの一軍に入ることができた。一軍の仲間には青峰、緑間、紫原がいた。一年なのに一軍なのは破格の扱いである。マネージャーに桃井さつきという一年の女子が入り、彼女は青峰と同じ小学校だった。もちろんマネージャーには三年の先輩の女子もいた。桃井さつきは先輩から業務を聞いて、こなす毎日だった。このころは桃井はまだ目立たないおとなしい少女だった。その目立たないという点で、赤司が目をかけて監督に推薦した、三軍の黒子と共通点があった。なぜ君は黒子くんを引き立てたのかな?「彼」はその夜赤司に尋ねてきた。黒子が・・・哀れだったから。あんなにがんばっているのに一軍にはなれない。赤司がそう言うと、「彼」はおかしそうに笑った。それは君自身を見ているような気がしてだね?どうしてだ。僕はそんな風に思ったことはない。そうなのかい?でもそうやって君自身を刈りこんでいくといいよ。「彼」はそう言って眠るように消えた。「彼」はこのころはまだ暴君の片鱗を見せていなかった。黒子はパステストの結果、一軍に昇格した。それで桃井や青峰たちと話す機会が多くなった。赤司は焦った。黒子は影が薄く存在感がないせいか、男子にも女子にも分け隔てなく接することができた。自分はそんな風にはなれない。ただ外面を取り繕っている。僕と周囲の間には壁があって、僕はその箱の中にいるんだ。そう思った。箱を作ったのは父であり、黒子や青峰だと思おうとした。しかしその箱を作っているのは彼自身だと赤司にはわかっていた。その絶望感が赤司を少しずつ変えて行った。焦りを感じている分、彼は以前よりもバスケットに打ち込んだ。誰にも文句を言わせないプレーをしようと思った。その努力の甲斐があって、赤司は二年生で主将に抜擢された。それはやはり破格の扱いであったが、赤司は噂話で自分の名家の出自からそうされたということを、耳にしても聞かないふりをした。あくまで慢心しない平常心である自分でいなければならなかった。父から普段からそうあるべきだという話をしつこく、二人きりでの夕食時にされていた。それで試合中青峰が言った「俺に勝てるのは俺だけだ。」というセリフを聞いたとき、赤司は心中おかしさを感じた。桃井はこういうやつが好きなんだろうかと思った。実際に青峰は強い男だったからそう言うのも無理はなかったが、自分だったらこうは言わないと思った。その機会は不意に訪れた。

青峰がさぼりでいなくなり、紫原も抜けたいと言い出して引っ込みがつかなくなり、ワンオンワンで紫原とシュートの応酬をすることになった。「俺より弱い人の言うことを聞くのはやだな。」赤司が最近調子が悪いのを見た紫原がこう言ったのを聞き、赤司は抑えがきかなくなったが、桃井が仲裁に入ろうとし、それを止めたのもあり内面が揺れてしまった。動揺して紫原にリードされ、敗北を感じたとき不意に「彼」が自分にかぶさって来るのを感じた。「彼」が僕の代わりを務めようとしている。それは一瞬のことで、「すべてに勝つ僕は、すべて正しい。」と赤司は言い切っていた。それは「彼」の唱えたRPGにおける呪文のような警句だった。「彼」が僕をその瞬間全面的に肯定してくれた。そう思ったとき、赤司は解き放たれたように全力でプレーができるようになった。自分自身からの肯定ではなかった。だからそれは、青峰のセリフとは微妙に違う。その後の「僕に逆らうやつは、親でも殺すぞ。」という言葉も、赤司自身ではなくて「彼」の言わせた言葉だったかもしれない。赤司とその時から「彼」は共闘するようになった。それまではそうではなかった。赤司は「彼」と一体化することで、桃井への表面的な想いから離れるようになった。桃井がその時自分の肩を持たず、監督に告げ口するケンカとしか認識していなかったことへの苛立ちもあったのかもしれない。桃井がばらばらになる帝光メンバーたちに心を痛めて、人知れず流していた涙も、赤司は知らない。桃井とは事務的な話ばかりするだけで、赤司の周囲との壁はますます高くなっていった。三年生の最後の日、赤司は京都の洛山高校に明日から出発するのを控えて、卒業式に出席した。洛山は選手の青田買いに来た監督の話を聞いて、父から離れられそうだと思い、自分ひとりで決めたのだった。洛山は勉強も厳しい学校で、最初は渋った父も赤司の決意が動かないのを見て承諾に動いた。何よりもベストスリーに何年も選抜されていることが、赤司の目的にかなったものだったのだった。帝光時代のことは、箱詰めにして流すつもりだった。少なくとも桃井の前で紫原にリードを取られたことは、絶対に消し去りたい過去だった。全国制覇の時はもう一度紫原と当たるかもしれないな、と想像することは楽しいことだった。彼は秋田の陽泉高校に進んだ。

卒業式では下級生の女子に人気のあった赤司は、制服のボタンをいくつか取られた。こんなものだな、と思い校舎をあとにしようとしたとき、物陰から桃井が現れた。桃井は泣きはらした目をしていた。「赤司くん、京都に行くんだってね。もう会うこともないね。」桃井は言った。赤司は答えた。「桃井さんはもうバスケ部には入らないのかな。」桃井は赤司がそう尋ねると、びくっ、と身を震わして小声で言った。「あんな思い・・・もう二度といやだけど・・・赤司くんにまた会えるのなら・・・マネージャーをやるよ。」赤司は答えた。「そうなんだ。桃井さんもがんばって。」桃井はなんとも言えない顔で立ち尽くしている。桃井は言った。「赤司くん、どうしちゃったの?昔の赤司くんじゃないよ・・・。」「僕は僕だけど?桃井さんもボタン、ほしいの?」赤司としては、桃井の核心をついたセリフを冗談にしたい気持ちもあったのだろう。少しじゃれてみたのだった。しかしそれは桃井には軽薄に聞こえたらしい。桃井は叫んだ。「そんな赤司くんは嫌いだ!やさしくない赤司くんなんか!」そう一声叫ぶと、桃井は校舎の向こうに駆けて行ってしまった。

「彼」は赤司に語り掛けた。桃井さんは明洸戦で、君が点数を操作して勝ちを得たことを黒子くんから聞いて知っていたね。それで黒子くんは退部届を出した。君はその事実も箱詰めにするのかい。追いかけなくていいのかい、彼女を?赤司は答えた。僕は僕だ。それ以外の何者でもないよ。僕は彼女の思ったとおりの人間なんだ。そうなるようにこれまで努力してきたからね。なんにでも勝たないといけないんだ。「彼」はそう言うと心から笑った。じゃあ僕は君の手助けをしてあげよう。君の気がすむようにしてあげるよ。そしてそういう君を彼女は遠くから見るんだろうね。君はそれで満足かい?京都までの新幹線の中、赤司は流れる車窓を見ながらぼんやりと考えた。桃井さんのことも、これから小さな小さな箱になって消えていくんだ。彼女はどこの高校に行くんだっけ・・・青峰とまた同じ高校かな。彼女は僕のことが嫌いだったんだ。なんで好きになんかなったんだろう。早く忘れないといけない。僕にやさしかった人はみんないなくなるんだから。赤司はそうして、洛山高校に入学した。