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青春ものの小説ブログです

緋色の領分 6

緑間はその時体育館で一人だった。ふつうの練習のあとまだなんとなく居残りでシュートの練習をしていた。ふと、思った。

(この距離から投げて入るかな?)

入るはずはない、そう思った。試しに注意深く狙って打ってみた。

(入った。)

緑間は思わず括目した。自分が成長してきている。それは実感ではない何かだった。自分が自分でなくなる感じ。しかし紛れもなくそれは自分であった。気がつけば、あの全中のスタメンの仲間はみなそんな感じだった。紫原はものすごく身長が伸びた。そのダンクシュートは迫力を増していた。自分もまた、その途上にいるのだと思った。もう一年もないんだと思った。ここにいるのは、と。

 

その日桃井は下校時黒子と偶然一緒になった。桃井は黒子とは性別を気にせず話ができて楽だった。「キセキの世代」では唯一そんな部員だった。他の部員は正直気づまりがした。高校になっても自分はバスケ部のマネージャーになるのだろうか、と桃井はぼんやりと考えた。チームは負けなしでそれを言われるとうれしい。でも、私とは違う次元のことのように思える。そんな不安感があった。

「このごろは青峰くんも練習には出てくれてますね。」

桃井は黒子の言葉に少し微笑んだ。

「ええ、私がうるさく言ったから。大ちゃんはああ見えて責任感は強いから。」

「そうですね。部長の赤司くんもきっとうれしいと思います。あと一年もないけど。」

「うん。」

そこで桃井は少し立ち止まった。

「どうしたんですか、桃井さん?」

「うん・・・なんでもな・・・。」

と言った桃井の頬に涙がこぼれていた。黒子はあわてた。

「泣いているんですか、桃井さん?」

桃井は手で顔を覆い、耐えられない風に言った。

「ずっと一緒だよね、私たち。これからも一緒だよね?」

「桃井さん・・・。」

「ごめん、恥ずかしいね。私もう一人で帰る。ありがとう、黒子くん。」

桃井さん大丈夫ですかぁ、と言う黒子の声を背に桃井は急ぎ足で歩いた。もう夏の気配で風が強かった。桃井はいつもの道からそれて帰ろうかと思った。今日はクラブ活動はない。少し寄り道したっていい。テストもまだ少し先だ。

どうして今泣いてしまったんだろう、と桃井は思った。バスケット部のマネージャーをして苦労したことの方が多かった。全中の試合中ずっとつきそっているのは大変だった。それでもみんなが一緒にいるのを見ているのは楽しかった。あの人もいたから、と桃井は思った。あの人とは赤司のことだった。あんなロボットみたいな人、とクラスメイトが言うのにも桃井は黙って聞いていた。この恋は高校まで秘密にしておくつもりだった。いやもっともっと先まで秘密だった。私だけが知っている恋なんだ。以前街で見かけた赤司が、女性と連れ立っていたのを見ても、桃井の思いは消えなかった。何か理由があったんだ。そう考えることにした。試合をしている時の彼が好きなんだから、と思った。そういうあきらめの恋だった。

だからショッピングセンターに行く次の曲がり角を曲がった時、またその「二人」が遠くに見えたのを見て、桃井は心底驚いた。前に見た時から一年ぐらいたっていただろう。やっぱり、と思って桃井は顔面蒼白になった。しかもたった今学校で禁止されているような店の中に入っていったみたいではないか。あれは何?と桃井は思った。やっぱり誰かに言うべきだ。でも先生には言いたくない。そうだ、家の人に言おうと桃井は思った。青峰くんの家に電話をかけたように言えばいいんだ。桃井はあわててマネージャーの事務ファイルばさみを繰った。部員の住所録が入っているはずだった。桃井は携帯から赤司の家に電話をかけた。しばらくコール音がした後、誰か年寄りの女性が出て来て、「赤司ですが。」と言った。桃井は勢い込んで話した。「赤司くんのおかあさんにつないでもらえます?」「おりませんね。」と言って電話は途切れた。その次からは何回かけても話し中だった。電話をはずされているのかと思った。おそらく電話を取った女中にいたずら電話と思われたのだろう、しかし桃井にはそんなことはわからない。桃井は家のある場所まで行ってみることにした。

もう夜が近かった。赤司家は小高い丘の上にあった。桃井は坂道を息せき切って登りながら、何のために私はこんなことをしているんだろうと思った。でも、赤司くんのためなんだ、と思った。赤司の家は大きかった。鉄製の玄関は広くて、呼び鈴を押しても誰も出なかった。あきらめて帰ろうとした時だった。

「君、その制服は征十郎くんの学校の生徒だね。彼に何か用?」

古賀だった。車から降りて桃井に近寄ってきた。古賀は先日赤司と最後に会った時、少し不審なものを感じたので、あれから一か月ほどたっていたが、またその「曜日」だったので面会を約束したわけでなかったが様子を見に来たのである。桃井は最初驚いたが、相手がふつうの物腰の大人なので安心して言った。

「学校の帰りに赤司くんを見かけたんです。女の人とバーみたいなところに入っていって・・・見間違えじゃないと思うんです。それだけ言いに来ました。彼に注意してください。」

「それでわざわざ?それはご苦労だったね。」

「いえ。同じ部のマネージャーなんです。彼には言わないでください。」

「いいよ。気をつけて帰りたまえ。場所はどこかな?」

「○○市ショッピングセンターのすぐ近くです。」

桃井はきびすを返した。古賀はその様子を見て、何事か合点した。そしてやはり、と思った。赤司はやはりまだ晴美と会っていた。古賀はとりあえず詩織の部屋に行ってみた。紙の城が明かりを消した部屋の中で鎮座していた。近寄って見た。女王の紙人形のところに、白い名刺がはさまっていた。高田晴美の名前だった。名刺には赤司の筆跡で赤いボールペンで店名らしい英文と今日の日付、そして

「PM:20:00 TU(タイムアップ)」

と書かれていた。古賀は血相を変えて車に戻り飛び乗った。時間はもう七時過ぎだった。自分は考えすぎかもしれない、しかし征臣と晴美がつきあっていたことを赤司が知っていたとしたら。それは時間との勝負だった。

 

 

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緋色の領分 5

そのあと全中の全国大会があった。帝光は「キセキの世代」と呼びならわされている赤司ら二年生中心のスタメンを組み、見事二連覇の王冠に輝いた。青峰は相変わらず練習にはさぼりがちだった。虹村たち三年生は卒業し、彼らは三年生に進級した。桃井は全国大会に勝ったことはうれしかったが、クラブ中に不安な空気が渦巻いているような気がしてきていた。ベンチに座って練習を見ている桃井の横に、その時クラスメイトの女子が来た。

「バスケ部、がんばってるじゃん。」

「みっちゃん・・・・・。」

「なんかそっちばかり見てるね最近。赤司くん?」

桃井は赤くなってうつむいた。

「見てないよ・・・・なんでそんなこと言うの?」

 「だって今年はもう三年生だもんね。もうすぐ卒業でしょ。告白するなら早いうちがいいよ。彼人気あるからさ。」

「そんなのいいよ・・・。違うから・・・・。」

「そうなの?遠慮していたら、盗られちゃうよね。彼財閥の息子だから。」

「そんな話しないで!」

桃井の強い語気にみっちゃんは驚いたようだった。

「言っちゃだめだったの?桃井はふつうの家だから?」

桃井は立ち上がった。

「私はただのマネージャーだから。関係ないから言わないで。」

「怒んないでよ、ピーチ姫。ただの告白タイムじゃん。」

「その呼び名嫌いだから!」

桃井はそう言うと向こうに行った。ピーチ姫というのは、昔の子供向けファミコンゲームのキャラクターだった。時々桃井はそう呼ばれているのだった。要するにクラス内では男女関係では古臭い感じがするというので、そうあだ名をつけられていたのだった。それもまたスクールカーストと言える。桃井はそれが嫌いだった。人より幼い自分を指摘されているようで、腹が立ったのである。しかしそれは図星であった。他人からの指摘は客観的に見るから、適格なことが多い。それは桃井も自覚していた。

歩いていって職員室の前まで来たとき、不意に桃井の前に副監督が立った。真っ青な顔をしていた。どうしたんですか、と桃井が声をかけると、副監督は監督が今職員室で倒れた、救急車で運ばれたと言った。桃井は驚いた。元気そうに思っていたのである。全国大会で遠征に出向いた心労がたたったのだろうか。監督は老年とはまではいかなかったが、それなりの年齢の中年だった。今後のクラブ活動が慮られた。

副監督はそのしばらくあと、理事長室に呼ばれた。今後は君が監督代行で、勝利至上主義を貫くように理事長から説得された。全中の試合で勝ったメンバーで、彼らが卒業まで勝ち続けさせろと命令されたのである。副監督は責任の重さに困惑した。そのメンバーで気になる人間は、やはり練習をさぼりがちだった青峰だった。副監督は青峰を個人的に呼び出し、部活動をこれ以上休むのなら試合だけに出るだけでもういいと言った。この言葉は青峰には相当ショックだったらしい。事実上メンバーから降格に近い形での言葉だった。青峰は部屋を飛び出し、しばらくあてもなく夜の街を歩いた。

自分は今のバスケット技術には自信がある。「俺に勝てるのは俺だけだ。」、そう鎌田西の双子の兄弟のフェイクを抜いたときもそう言った。俺を止められるやつなんかいないんだよ。前の試合でわざと敬遠されたと感じたときからそうだった。それは俺への無視なんだよ。青峰は桃井が気遣ってくれるのがなんとなくうれしかったので、さぼっていたフシもあった。桃井だけは俺を無視しないんだ。高い技術を持った代償は無視だった。今また副監督からおまえを無視するという話を個人的にされた。なんでだよ。そして部長の赤司はそういう青峰に対して何の言葉も言わない。たぶんあいつも無視してんな俺のことを。青峰はそう思った。

街角に立った自販機でコーラを買っていたときだった。ライトがまぶしい対向車の中に見慣れた顔がいたような気がした。

(赤司・・・?)

なんだ今のは、と思った。気のせいだなと思った。あいつが女と車に乗っている。俺が今あいつのことをくそいまいましいと思ったからそう見えたんだなと思った。青峰は深く考えないタイプだった。それでも試合ではせいぜいいいプレーをしてやるよ、と青峰はコーラを飲みながら考えた。黒子、おまえのパスどう受ければいいのかも忘れちまった。おまえは素直ないいやつだからな。青峰は鉄かごにコーラの缶を放り投げた。缶はバスケットゴールみたいに中に入らず、はねて外に転がった。「ちっ。」青峰は舌打ちして前に歩き出した。

赤司は高田晴美と同乗した車で、郊外型レストランに行き食事をした。今回はまだおとなしく話を聞いていた。晴美にはどうやら息子みたいな子と遊んでみたいという願望があったらしい。それはこちらに好都合だった。赤司が生来身に着いたエグゼクティブな雰囲気で穏やかに話すのも、彼女は気に入った様子だった。話は征臣と詩織の若いときの話が多くて、詩織の知らなかった大学時代のエピソードの話は赤司には聞いていてうれしかった。しかしそれも晴美には見抜かれているようで、わざと小出しに晴美はその話をした。赤司を釣る餌だと十分知っての話ぶりだった。

「私もね、あなたみたいな息子がほしかったの。でも、結婚できなかったから・・・。」

と晴美が遠い目をして言うのに、赤司はその瞬間内心憎悪が渦巻いたが、表情には出さず、「それは悲しい話ですね。」と言った。晴美は「そう思う?じゃまたおばさんの話につきあってくれる?」と笑った。「いいですよ。時間がある限りおつきあいしましょう。」と赤司は答えた。

赤司が晴美とレストランに出てくるのを、古賀は向かいの道路に停まった車から観察していた。晴美から勤務先の中学校にかかってきた電話で、「赤司征十郎って子ほんとに征臣くんの息子かな?あなた知ってるでしょ。」と言われたのである。「詩織とあなた仲がよかったし。知ってるわよねー。」と言って電話は切れた。高田晴美はクラブは違うが、大学の仲間の一人だった。胸騒ぎがして、詩織の会社から跡をつけてみた。赤司がクラブ活動がない曜日があるのは、心療療法もどきをする日にあてていたので知っていた。それも最近は忙しいと断っていた赤司だった。それでまさかと思っていたことが今目の前にあった。どういうつもりだ。もちろん古賀は赤司とふだんから何度も話をしていたから、赤司が年上の晴美と恋愛感情で一緒にいるとは到底思えなかった。何かたくらんでいる。絶対にそうだ。赤司にはそういうところがある。腹の底では何を考えているかわからないところが。それは最初に「お城を作ってみよう」と言って、赤司が女王の紙人形を乗せたときからそうだった。古賀はその人形は赤司の心の中の失われた母親像を表していると思ったが、それだけではない何かを感じさせる子供だと思った。そういう、両義的なところが赤司の行動にはあった。

それで次の赤司と詩織の部屋で会ったとき、古賀はさりげなく話を切り出してみた。赤司の神経を逆なでしないように言葉を選んで慎重に話した。今赤司は安定しているのだ。元の小学生のころの赤司に逆行させてはならない。最初はNBAの選手の話などをし、最近の部活の話をしてから、最近どうしているという話になってから、古賀はこう切り出した。

「先日僕の中学に電話がかかってきてね。おかあさんの同級生の人と街で君は会っているね?」

赤司は顔色を変えなかった。ふつうの顔で古賀にこう答えた。

「はい。僕にいろいろ話をしてくれます。あの人はいい人ですよ。僕の親戚ですからね。」

「しかし君よりもだいぶ年上の女性だからね。そういう女性とおつきあいをするというのは、あまり感心しないね。」

「僕から特別に頼んだんです。僕はあの人が好きなんです。」

「君ぐらいの年齢ではそういう感情はありがちなのだろうがね。」

「そうですね。そういう興味は僕には確かにありますね。」

 「年相応の子と恋愛した方が面白いと思うんだがね。」

「嫌ですね。」

赤司の表情は動かなかった。古賀はたじろいだ。まるで機械と会話しているみたいだった。古賀は晴美が赤司の父征臣とつきあっていたことはもちろん知っていたのである。何かありそうだと思った。とにかく、と古賀は言った。

「君は高田さんとおつきあいするのは、やめた方がいい。君のためにならない。せっかくここまでバスケットを上達できたんだ。それを無にすることはやめた方がいい。」

古賀の思いやりめいた言葉に、赤司は機械的に答えた。

「そうでしょうか。あの人のことを思ってバスケをすると、力が入りますよ。古賀さんだって、僕のおかあさんのことを思ってバスケをしていたらそうだったんじゃないんですか。現に僕のおかあさんが死んだらバスケを正式にするのはやめてしまった。」

「それは私の個人的な問題であり・・・。」

「古賀さんはおかあさんと寝たことだってあるんでしょう。僕はそれ、おかしいと思いません。僕だってそうしたい。」

「赤司っ。」

古賀は赤司に思わず手をあげそうになった。しかし振り下ろすのをやめた。赤司の頬に涙がこぼれていたのを見たからである。赤司は喉に詰まった声で言った。

「あの人はね、僕のおかあさんみたいなんですよ。だから一緒にいると安心するんです。」

「・・・・・・。」

思わず古賀は無言だった。赤司は何かに耐え、感極まった様子だった。そんなはずはない、と古賀は思った。まったく似ても似つかない詩織と晴美だった。赤司にだってそれはわかるはずだ。しかし今の赤司にはそう見えるのかもしれない。古賀は落ち着けと自分に念じながら話した。

「とにかく落ち着いてよく考えるんだ。いいね?君の人生なんだからね。」

「はい、わかりました。もう会いません。」

古賀は赤司の殊勝な答えに一応ほっとした。そしてこれ以上追い詰めるのは危険だと思った。

「それならいい。君も母親を亡くして大変だと思うが。学校のことに専念しなさい。」

赤司はそこでこう言った。

「古賀さん。以前から父に言われていたのですが、そろそろこの心療療法も終わった方がいいと思うんです。僕ももう十五歳になりました。昔なら元服のころです。僕も学校の方が忙しいので。」

「うん。」

「これからは僕一人で生きていきます。」

「それは君一人ではないよ。人間はいろいろな人と支え合って生きているんだからね。」

「でも、そうなんですよ。それで頼みがあるんです。心療療法が終わっても、しばらくはこの紙の城は残しておいてほしいんです。古賀さんが持って帰らないでほしいんです。」

「ああ、君がそうしたいのならそうする。私は最初からそのつもりだったからね。」

「よかった。じゃあ、さようなら古賀さん。心療療法がなくなっても、時々また僕に会いに来てください。」

「ああ。」

古賀はそう言うと、立ち上がった。赤司はもう泣いていなかった。そして古賀に右手を差し出してきた。古賀は赤司と握手をして別れた。終の別れのようだった。古賀は詩織とは体の関係はなかった。それを言った赤司の心が気がかりだった。しかしこうやってもう自分の手から離れていくのだなと思った。そう思えた夕暮れだった。赤司邸は主人がほとんど不在のまま、静まり返っていた。

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緋色の領分 4 

赤司が桃井の目の前で乗った車を運転していた女性は高田晴美と言い、はっきり言うと父征臣の愛人だった女性である。年齢はもちろんもう若くなくて、40代後半であるが、サングラスをかけていたのと、若作りなので桃井にはそう見えなかった。要するに大人びた女性に赤司がお持ち帰りされたと見えたのだった。

高田晴美が赤司をはべらせていた理由も父征臣が原因である。高田は征臣の持つ赤司コンツェルンの同族会社の女社長を務めていた。いわば赤司から見れば遠い親戚にあたる。晴美はバブルのころ、起業ブームに乗ってベンチャー会社を設立し、そのころは仕手筋でならしていた父征臣と意気投合し、妻の詩織をほったらかしにして、接待ゴルフなどを一緒に興じていたこともあった。あのゴルフをするOLの漫画を地で行くような感じで征臣とはつきあっていた。しかし妻詩織がそういう夫征臣に愛想をつかし出して、昔の大学のバスケット部の古賀と連絡をとりはじめたころから、風向きがおかしくなってしまった。しかしそれは詩織から連絡を取ったのではない。街で偶然古賀と再会し、たまたま連れ歩いていた子供の赤司の頭をなぜて、バスケはおもしろいぞと言ったぐらいのことからだったのだった。征臣は最初は気がつかなかったが、詩織が公園に赤司を連れて行くのをある時見て、その時横に古賀が立っているのを見て、口論になった。古賀は毎回横にいて赤司に指導していたわけではない。しかし偶然そういうときを見られた。すでに子供の教育上のことで、征臣と詩織の間では決定的な違いがあった上に、それである。詩織が子供に自由な時間がないのはかわいそうだ、とあまりに言うので、征臣がしぶしぶ譲歩したのが、古賀とは日常的に会わないということ、そして制限時間を分単位で決めた公園でのバスケット遊びだった。幼い赤司はそれでも喜び、近くの公園でバスケット遊びに興じた。詩織は赤司が征臣に時間を決められて、毎日勉強やお稽古ごとを山のようにやらされているのにも、ただあきらめて無言で微笑んでいるだけだった。そのころには詩織はほとんど征臣と会話をすることはなかった。相変わらず晴美と征臣のつきあいは続いていた。詩織との結婚は政略結婚の要素が強かったのだった。学生時代に知り合いではあった、しかしものすごく仲がよくて恋をして一緒になったわけではなかった。そんなとき悲劇は起きた。

その公園から帰宅する途中だった。公園は大きな総合運動公園で、前に車線の広い道路があった。そこを渡ろうとしていたときだった。赤司は先にボールを持って走って横断歩道を渡った。おかあさん、早く早く、と言ったときだった。向こうから大型トレーラーが走ってきた。トレーラーは速度を緩めずに右カーブで曲がった。

「おかあさん!」

巻き込み事故だった。赤司の数メートルの手前で母親詩織は車輪の下敷きになっていた。母親が押しつぶされる瞬間を幼い赤司は目撃したのだった。おかあさんがはじけた。幼い赤司はボールを取り落として、その場で金切声で泣き叫んだ。運転していたのは、ある運送会社の社員だったが、明らかに暴力団系列の会社にいた中年の男だった。男は警察ではカーブでブレーキを踏んだが間に合わなかったと主張した。父征臣は、母詩織がバスケットを子供にやらせた帰宅途中に亡くなったことを面倒に思い、警察の事情聴収は手早くすませ、男とは示談金で早く解決した。妻に先立たれたことで、会社の業務が滞ることと、相続税を多く支払わないといけないことなどで征臣は腹を立てていた。妻の死はあくまで予定外だった。しかし征十郎は警察の人に、自分の目で見たものを伝えたいと言い張った。父征臣はがんとして聞き入れなかったので、征十郎は学校で荒れたのだった。そのころ世界は征十郎に向かって牙をむいていた。わかってくれたのは古賀さんただ一人だけだった。

その古賀さんが見たら何と言うだろうか。自分は今その、母の仇の高田晴美の運転する車の助手席に乗っている。乗馬クラブ入口で、車のキーを拾ったと言って声をかけたのだった。それから馬のことで話をつなぎ、実は征臣の息子だと言った。晴美は最初警戒したが、共通の親戚の話を持ち出し、赤司が幼いころに会ったことを覚えていると言うと、その警戒心を緩めた。運転しながら晴美は言った。

「征臣くんの息子だなんて、見たときは思わなかった。だってぜんっぜん似てないんだもん。そういうことってあるのねー。」

「そうですね。似てないってよく言われます。」

「あの乗馬クラブに前にいたんだって?」

「ええ。昔父にやらされました。」

「ふうん。今は何しているの?」

「バスケットをクラブ活動でしています。」

「そうなの。まじめなのね。詩織とは大学で一緒だったこともあるのよ。かわいそうな死に方だったわー。」

「ええ。」

「征臣くんひとりで育てたなんて、えらいわ。私はあいつとはつきあったことあるけど、ほんとそういうのだめって思ってたから。」

「そうですか。」

そこで赤司はこう切り出した。

「僕、母のことよく知らないんですよね・・・・。すごく小さなころに亡くなったので、母の話を聞きたいんです。」

「あら、そうなの?おばさんの知ってる話してあげようか?」

「ええ、知りたいですね。」

「そうなの。じゃ、また会いましょ。征臣くんにもよろしく言っといて。これ、私の連絡先。スマホにつながるから。」

と言って高田晴美は名刺を征十郎にくれた。ふつうの会社名刺だった。手に入れたかったのはこれだった。そのため一年ぐらい前から高田晴美の周辺で、時間のある時さぐりを入れていたのだった。退部した灰崎が繁華街で見て「裸の王様」うんぬんと言ったのは、このころの赤司を目撃して言ったことであった。

帰宅した赤司は、父のいない夕食後に、自室の机の引き出しから睡眠薬の錠剤を何錠か取り出した。それは幼いころの赤司に処方された睡眠薬だった。今はこういうものにたよらずとも、母の死を目撃したことは乗り越えられている。しかしあのころはそうではなかった。それを思うだけで、赤司の心は激しく暗くきしむのだった。睡眠薬は家庭の管理能力がほとんどない父にまかされて、台所の戸棚の片隅に長い間放置されていたものだった。ホームセンターで購入した小さなすり鉢とすりこぎで赤司はそれを入念に押しつぶした。ネットで薬効成分などは調べていた。自分のこれからしようとしている計画は、完全犯罪などとはほど遠いことだ。それはよくわかっている。しかしどうしても許せない。あの女が生きていることが。ふと、彼は手を止めた。赤司は低く唇に乗せてつぶやいた。

「・・・桃井さん・・・。」

桃井さんは悲しむだろうか、と赤司は思った。自分が逮捕されたらあの帝光バスケ部は終わりだ。いや桃井さんはきっと僕のことを激しく憎む。バスケ部の未来をつぶした男として。桃井さんも僕から去っていく。きっと青峰のところに行くんだな、と彼は思った。いつのころからか青峰は恋のライバルだった。桃井さんが母と同じバスケ部のマネージャーというだけで、好きになった。記憶力のいい赤司は、入学式の時の桃井の様子まで覚えていた。桃井は桜吹雪の舞う中、制服を着て楽しそうに笑っていた。あの時から大好きだったよ。馬鹿みたいだ僕は。僕がいなくなったら、あの紙の城の中に、桃井さんの人形だけが残るんだ。桃井さんを囲んでね、ナイトたちが各ポジションにいるんだよ。それを桃井さんは少しも知らないんだ。赤司の孤独な作業は続いた。

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緋色の領分 3

黒子が一軍に昇格したのは、その年の秋口だった。赤司との練習と、自分で書店で買ったスポーツ関連の本を読んでミスディレクションの練習をし、また青峰と自主練習に励んだせいで、監督から一軍に入るように言われた。このころには後に退部してしまう灰崎も一軍にまだいた。桃井はあの影の薄かった子が一軍に入れたと知り、驚いたが黒子がかわいい印象の子だったせいもあって、応援したくなり素直に喜んだ。黒子にはそういう愛玩動物のようなところがあった。要するに雄を感じさせないところが多かった。

しかし実のところ、監督に黒子のことを進言したのは副部長の赤司だった。黒子に影の特性があること、実戦で使えそうなことを赤司は折を見て話した。まだ一年生の赤司だったが、言うことが論理的で筋道だっているので、気に入った監督は昇格を承諾したのである。

「視界に速く動くものと遅く動くものがあれば、速く動くものを追ってしまう。目の前の人がふとよそ見したら同じ方を見てしまう、など。そうした習性を利用し視線を操る技術の総称がミスディレクションです。黒子には目立たない特性があるから、コート上であたかも幻のように姿を消してしまう。」

赤司の説明に、監督と部長の虹村は言った。

「要は実戦で勝てるかどうかだ。チームで勝てなければ話にならない。」

帝光のバスケ部は全国優勝を目標に掲げているクラブであったから、こう言われるのも無理はなかった。虹村は言った。

「ウチの地区では上位10校でこの時期交流戦を行っている。非公式だがただの練習試合よりも熱の入る試合だ。それに今度おまえたち一年生だけで出てもらう。もともとウチは頭二つぐらい抜けているからな。上級生もベンチには入っていて危なくなったら交代するが、もしそうなったら降格は覚悟しておけよ。」

その交流試合では、黒子は結局虹村と交代してしまうことになった。仮の一軍だったから、他のメンバーたちもそれほど黒子に期待していたわけではなかった。しかしその次の試合でも黒子は調子がよくないので、さすがに赤司は黒子にこう言ったのだった。

「パスの強さを修正する必要があるな。一軍のパスの速さはもっと速い。それと、表情に気持ちを出さないことだ。闘志があるのはいい。しかしそれは内に秘めろ。存在感を消すことが大切だ。」

「はい。」

黒子はそう言われて、上り調子になった。赤司にこう言われることは、信頼できることだと思った。青峰も黒子については監督に補正するように言っていたが、何よりもはじめに目をかけてもらった赤司から言われることはうれしいことだった。文通でやりとりをしている萩原ともお互いにがんばろうと励ましあった。しかしそのころ、灰崎が退部届を出し、入れ替わるように黄瀬が入部してきた。黄瀬は最初は二軍だった。桃井は監督に言われて、黄瀬の面倒をみるのを黒子に頼んだりした。しかし桃井にも気にかかることがあった。灰崎がやめる時、副部長の赤司が冷たい目をして桃井にこう言ったのである。

「灰崎の素行の悪さは最近目に余る。先日も他校の生徒と繁華街で喧嘩をしていた。退部を薦めよう。もう用済みだ。」

「え・・・赤司くん、見てたの?」

「ごみ焼却場でロッカーのシューズも燃やしていたからな。そんなやつにバスケを続けられるとは思えない。」

「あの・・・。」

「桃井さんも彼には近づかない方がいい。」

赤司はそう言うと、向こうに行ってしまった。桃井はなんとも言えない気持ちになった。時々赤司くんは、ひやりとするほど冷たい・・・。灰崎がシューズを燃やしていたときに、黒子もたまたま見ていたようだ。彼に灰崎はこう言った。

「本当に怖いやつや悪いやつは他にいるんだよ。俺もバスケするより女と遊んでいる方が楽しいからな。」

「あのそれって・・・・。」

と黒子が言うのに、灰崎は笑って答えた。

「おまえらの王国にこれ以上つきあう義務はねぇんだ。裸の王様掲げて戦ってりゃいーんじゃねえの?俺に言えるのはこれだけ。おっかねぇからな。じゃあな。」

「灰崎さん・・・・。」

そのあと、赤司らは二年生になった。そして監督が交代し、虹村が発表があると言った。「赤司を次期主将に任命する。」と。虹村の父親が病のため入院し、その看病のためこれ以上部長を続けられないと言い、監督に赤司を部長に推薦したのである。赤司は部長をやめるための虹村の怒ったような態度にも、特に何も言わず、むしろ彼としては珍しく正面から同情的であった。そして虹村にがんばってくださいと声をかけた。それは単に先輩あげのための言葉とは見えなかった。

「おまえにも情はあるんだな。」

と、虹村は思わずほろりとなり、苦笑したように赤司に言った。副部長をして横にいるとき、まるで精密機械が横にいるようだと何度も思った虹村だった。赤司は使えるやつだったが、情に薄いと彼は思っていたのである。赤司は言った。

「尊敬できる父親を持って、虹村さんは幸せです。」、と。虹村は赤司の言葉をさほど気にも留めなかった。赤司は学校では自分の家のことをほとんどしゃべらず、そういうことを言うのも珍しかった。ただ緑間あたりは赤司の家のことを少し知っていて、紫原に噂話として話たことがあった。要するに赤司の家ほど自分の家はでかくない、という話をしたのであった。しかしその先は不明だった。赤司が帝王学を幼少時から学んでいる、という緑間の話も、たぶんに緑間の希望的観測だった。ただ赤司の挙動を見ていると、幼いころからタイムスケジュールどうりに勉強させられていたような風が感じられたのでそう言ったのだった。赤司には得体のしれないところがある。緑間はそう思ってそう言った。自分と同じ分析派で頭脳派の人間だと思うが、帝光バスケ部の影は、実のところ黒子ではなくて赤司だと緑間は思っていた。赤司はほとんど指示以外余計な話はしない。しかし皆を影で支えている。彼が部長になってから確かにクラブは成績がよくなっている。それでか、噂では今の一軍のメンバーは「キセキの世代」と言われることがあった。それも縁の下の赤司の実力かと緑間は思った。

さて、このあたりから青峰と桃井の話になる。この二人はつかず離れずで幼馴染として横にいたが、青峰がバスケットで次第に自分の技術に頭打ち感を感じて、また出場した試合などで格下の相手にがっかりすることが多くなり、そんな自分にいらいらして桃井にあたるようになっていた。部活もさぼりがちになっていた。

「青峰くん、部活には出てよね。」

と、桃井は青峰の家に電話したこともあったのだが、青峰の母親から今はいないと言われることが多かった。部活の練習には出ず、試合にだけは出る。それでは困る。監督にもそう言われている。桃井は困惑した。自分は青峰の保護者ではない。でもそんなことをさせられている。青峰に怒ったところで仕方がない。本人のやる気なんだ。しかし黄瀬から青峰が繁華街にいるみたいだという話を聞いて、いても立ってもいられなくなった。

「どうして黄瀬くんは青峰くんを見かけたんですか?」

「いやあ、モデルしないかとしつこく言われている事務所の近くで歩いているの見たんス。」

「青峰くんを探しに行きます。」

「桃井さん一人だと危ない。俺と黒子もついて行くッス。」

青峰がいると言われた場所は、学校から私鉄に乗って終点のターミナル駅付近だった。部活のない放課後三人はターミナル駅に行き、近くの大型ショッピングセンターなどをまず探したが、そこではまったく青峰は見つからなかった。

「しようがないですね。飲み屋のあたりも覗いてみるッスか。」

と黄瀬が言うと、黒子は焦った顔で言った。

「やくざがいるところは、怖いです。」

桃井はたよりにならないとため息だった。桃井は言った。

「仕方ないでしょ、青峰くんまさか飲み歩いていないと思うけど・・・。」

「やつならやりかねないッス。」

「もう、こらあ。日が暮れる前に見つかるといいけどねぇ。」

桃井は大きくため息をついた。と、その時黒子が叫んだ。

「あっ、あそこのコンビニにいますよ、青峰くん。」

「えっ、いたの?よかった・・・。」

と桃井が思った瞬間だった。桃井は黒子の指さした方を見ようとして、視界の隅に何か赤い頭のようなものが動くのを目にしたような気がした。

(えっ、赤司くん?)

桃井はあわてて振り返った。少し離れた歩道の向こうで、外国車みたいな赤い車に、女性と一緒に赤司が乗り込むところだった。見間違えではなかった。その瞬間桃井はショックで棒立ちになった。車は見ているうちに、信号機のある表通りに向かって発進していく。

(赤司くん!)

桃井の心は全身で叫んでいた。黄瀬が桃井の気配に気づいて言った。

「あれ、どしたんスか?桃井さん?」

桃井は今見た光景を黄瀬に言うのをためらった。青峰のことは皆の既成の事実である。しかし赤司のことは今自分しか気が付いていない。言っていいものかどうか。その瞬間、桃井の中のもう一人の桃井が言っちゃだめ、隠して、と桃井に強く命じた。桃井は言った。

「あ・・・なんでもないない。青峰くんいたのね?」

「?」

黒子が青峰に追いついたようだった。

「青峰くん、部活に出ましょう。」

と言っている。青峰は罰が悪そうだった。

「なんだおまえら。わざわざ来たのかよ。」

「こんなところ中学生は放課後来ちゃいけません。」

「るっせーな。わかってるよ。」

青峰はうるさそうに言った。桃井は言った。

「大ちゃん、嫌なのはわかるけど、こういうところはやめようね。」

「わあったよ。」

青峰はぶつぶつ言いながらも、桃井たちと帰宅するため私鉄に乗った。桃井は帰宅して、二階の自分の部屋に戻りさっき見たことを反芻した。部屋の電灯はつけなかった。

(赤司くん、どうしてなの。そして、どうして私はみんなに言えなかったの。)

クラブ活動中に自分の赤司への気持ちを意識したことは何度かあった。だがそれは、桃井は意識しないようにしていた。しかし今日はっきりそれを指摘されたような気がした。明日学校で、皆や監督に今日見た事実を言うのもためらわれた。それで赤司に嫌われるかもしれないと想像することはたまらなかった。

「赤司くん・・・・。」

桃井はそうつぶやくと、勉強机の上で顔をうずめた。自分でもおかしいほど涙が湧いてきた。

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緋色の領分 2

赤司家は東京の閑静な住宅街の高台の一角にある。外壁はタイル貼の洋館風で、窓も高窓でヨーロッパ風だ。しかし明治時代に建てられた歴史的建築物ではなくて、戦後の70年代のころに建てられた家屋だ。従って内部構造は鉄筋造りの頑丈な建物である。質実剛健な作りの家は、家風の堅実な株取引で財を成した実業家の一家に誠にふさわしいものであった。

その洋館の中の食堂の一室で、今日も父子二人だけの夕食会が行われている。もちろん毎晩というわけではない。父征臣が会社社長の業務で忙しい場合は、征十郎一人で夕食をすませる。その場合は母屋の台所で食べるのであった。しかし父と食べる場合はこのようなダイニングルームで食事をとる。

征臣がその時、思い出したように征十郎である赤司に言った。

「そろそろおまえの前髪が伸びてきたな。散髪に行くように手伝いに言いつける。」

「はい。」

「古賀とはまだ詩織の部屋で、箱庭で遊んでいるのか。」

「最近はしておりません。古賀さんも僕も忙しいので。」

「そうか。バスケットもほどほどにしておかないとな。部ではどうだ。」

「はい。副部長になりました。」

「部長になるぐらいでなくてはな。古賀と詩織のことで、小さいころおまえの髪の毛をDNA鑑定に出したことがある。おまえは正真正銘私の子だから、それぐらいでなくては困る。」

「はい。」

「詩織のことでは本当にいろいろあった。思い出したくもない話だ。忙しい中で何度も警察に出向かなければならなかった。葬儀は立派なものにしたがな。赤司家の葬儀だからな。」

「・・・・・・。」

「あの詩織の部屋もそろそろ片付けて、整理をした方がよさそうだ。」

「それは困ります。古賀さんと僕の医療療法はまだ終わっておりません。」

「そうか?すっかりもういいように思うが。車での送迎も断り、おまえももうふつうに学校に通っているし、成績の方も学年一位を取っている。そうでなければならないが。」

そこで征臣は食事のスプーンを置き、赤司に言った。

「古賀と会うなとは言わない。もともと私からおまえの面倒を頼んだのだ。ただ古賀とバスケットの話ばかりするのはそろそろやめたらどうだ?おまえには赤司コンツェルンの跡取りという重大な任務が控えている。考えておくようにな。」

「はい。」

赤司はほとんど父の顔を見ずに答えている。父はまるで、のっぺらぼうの人物のようだ。そう思うのはなぜだろうか。まるで現代抽象絵画の人物像のように思えてならない。しかし赤司はふつうの顔で言った。

「心配せずとも、バスケットのことは学業の合間にしているつもりです。」

「そうか。それならいい。」

と言うと、征臣は席を立った。いつもの父との夕食会だった。

夕食後、赤司は自室の前の廊下の突き当りにある、死んだ母詩織の部屋に行ってみた。母の部屋はきちんと整頓されていて、マホガニーの化粧机の上に、ペーパークラフトの城が置いてあった。先ほどの父の話に出た「箱庭」はこれである。古賀が赤司が小学生のころに持ってきたもので、外国製の本格的な代物だ。古賀とこれを何年も作っている。それは母が死んだあとからだった。

「お城を作ってみよう。」

と、古賀が言ったのだった。母が死んで荒れていた時期だった。自分は小学三年生だった。古賀は古賀秋夫と言い父と母の共通の古い友人で、中学校で体育の教師をしていた。妻帯者で子供もいた。赤司より幼い兄弟だが、写真でしか見たことはなかった。

古賀はきれいに切り詰めた角刈りの頭をした背の高い男で、父よりも清潔感の漂う風貌をしていた。赤司は最初から古賀には魅せられた。大学ではバスケット部に所属していて、赤司の母はそのマネージャーをしていた。バスケットを幼い赤司に薦めたのは母だったが、母の死後赤司にバスケットの話をするのは、もっぱら古賀であった。彼は大学でも体育会系のところにいたせいか、スポーツ心理学なども学んでいて、赤司の父から赤司が母の死後精神的におかしいと相談され、病院などに入院させるのは家風上好ましくないということで、赤司のところにやって来たのである。それで詩織の使っていた部屋で、なかば訪問看護の形で医療療法のまねごとをしていた。

もちろん小学生の赤司は精神科にも通院したこともあったが、それも父征臣の脳に悪いということですぐにとりやめになった。この紙の城も、父征臣の許可の上作ることになった。同じく脳に悪いテレビゲームなどもっての他だという話だったからである。それもある意味では無理もなかったかもしれない。母が死んだ直後赤司が小学校で作った粘土細工には、折られたカッターナイフの刃が一面に突き刺さっていた。それで色をなした女教師が、父征臣に赤司の脳がふつうではないと言ったのである。当時赤司はクラスメイトとも衝突を繰り返していた。

古賀はしかしその話を聞いても、赤司を特別扱いしなかった。古賀が母詩織が自分の大学のバスケット部のマネージャーをしていたこと、それで赤司にバスケットを薦めたことを言うと、赤司は得心してうれしくなってしまった。古賀と詩織の部屋で紙の城で遊び、ミニバスの練習をすることが一週間のうちの楽しみの日だった。しかし父征臣はある時機嫌が悪かったのか、バスケットをするなと一喝したことがあった。古賀と母とのいきさつも十分に推察される出来事だった。その日征十郎は夜くやしくてベッドで泣いた。あいつには何にもわかっていない。父の前で無言でいたのは、その抵抗のためだった。だが征十郎は紛れもなく征臣の息子であった。

赤司の目の前の紙の城の真ん中の塔の中に、女王様の人形が入っている。最初に城部分を完成させたとき、古賀さんが好きな人形を置いてごらん、と言ったので赤司はそれを置いた。

「それが君のお姫様だね。」

と、古賀さんは言った。赤司は無言だった。古賀さんは笑って言った。

「女の子のするような遊びだと思っているね。この城は君の心を表しているんだよ。箱庭療法と言ってね。こういうことをすると心が落ち着くんだ。人の心は不思議なものでね。君はなぜ人間が小説を読むのか考えたことはあるかい?」

赤司が首を振ると、古賀さんは答えた。

「心がそうするとバランスがとれるからなんだ。君はこのお城を作ることで、バランスがとれるようになる。君の物語なんだよこれは。バスケットの試合なんかも物語なんだ。そうは見えないけどね。」

赤司は月明りに照らされている、その人形をじっと見ている。古賀がお姫様と言った人形だった。それから城の手前の門のところに、新しく門番を置いた。それはこの前まで練習を一緒にしていた黒子のつもりだった。あいつはこの城に「必要」だ。古賀さんには言えないことだけどな、と赤司は思った。今では古賀さんの箱庭療法で僕はこの城を作っていない。それは絶対に古賀には秘密だった。赤司は詩織の部屋の扉を閉め、音もなく出て行った。

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緋色の領分 1

「わぁ、なにこれー。赤司くん、これ見てると目が回るよー。」

「うん、フレーザー・ウィルコックス錯視って言うんだ。ネットにもあるけどさ、これ紙に印刷しただけのものなんだよ。目の錯覚で動くんだ。」

「えーなにそれー。気持ちわるーい。」

帝光中学の一年の休み時間、同じクラスの赤司征十郎が持ってきた科学雑誌のイラストを見て、桃井さつきは正直気持ち悪いと思った。じっと見ているとその渦巻き幾何学模様はぐるぐると回転しはじめるのだった。桃井はクラスの女子たちの後ろからそれを見ている。彼女はおとなしい性格なので、ただ黙って見ている。赤司は得意そうだった。動かないはずのものが動いて見えるのが、彼にはそんなにうれしいのだろうか。赤司くんは変わっている。

「赤司、なにそれ。雑誌?」

「うん。古賀さんにもらったんだ。」

「誰?」

「お父さんの友人だよ。」

「あ、そ。つまんねぇじゃんそんなの。大人の読む本だろ。」

「つまらなくはないよ。この錯視は網膜で見た画像と、脳での情報処理能力の認識の時間がずれていて、起きるんだよ。人間だからそう見えるんだ。」

「へぇー。なんのことかさっぱりわかんね。」

男子たちがそう冷やかして言うのにも、赤司は意に介した様子ではなかった。女子たちは言った。

「サイケだよね。なんだかオバケみたいな絵っていうか。」

「あ、そう言えば体育館でこの頃夜オバケが出るんだよ。部活終わってるのに、ボールついている音がするんだって。」

「やっだぁー。誰か残っているんじゃないの?先生に見つかったら怒られるよ。」

「ねぇ桃井、三軍の倉庫最後にちゃんと施錠している?」

桃井ははっとなって答えた。

「え、え?体育館?見てるけど・・・・。」

「鍵ちゃんと職員室にかけておかないとだめだよ。」

「してるよー。」

「桃井はマネージャーだもんね、バスケ部の。最後まで使っているのバスケ部が多いから。」

話をしていたのは、女子バレー部のレギュラーのクラスメイトだった。彼女らが倉庫と呼んだのは、第二体育館のことだ。予備軍の三軍と呼ばれるレギュラー部員以外の部員が主に練習に使う場所だった。彼女は桃井に言った。

「今度さ、下校のあと念のために覗いてみたら?」

「えーいやだよ、真っ暗だよ。」

「青峰くんがいるじゃない。一緒に行けばいいんだよ。」

「青峰くんてかっこいいもんね。この前の全中の試合でも大活躍だったし。守ってくれるよ、オバケから。」

「え・・・え・・・・かっこいい・・・?」

「そうだよ。」

と、その時がたんと音がして、赤司が席を立った。丸めた雑誌を手に教室から出て行く。赤司が出ていくのを見はからってから、バレー部が二人で言った。

「赤司くんもかっこいいよね。彼もバスケ部だよね。家お金持ちなんだよ。入学式の日、学校の近くまで黒塗りの高級車で来たんだって。」

「えーそうなんだ。すごーい。」

「今はふつうに通っているけどね。もう赤司様って感じだよね。」

桃井は黙っている。自分はまだこの前入学したばかりの新米マネージャーで、そういうことをするのははじめてなので勝手がよくわからない。小学生の時の、体育クラブ活動とは明らかに違う。階層がこの世界にはある。大人の社会のひな型のような階層社会だ。それは小学校よりも露骨にあった。桃井がバスケ部のマネージャーになったのも、そうした階層社会が影響している。今も、バレー部レギュラーの子から遠まわしに見回りに行くよう命じられているのである。

桃井は運動があまり得意な方ではない。従ってマネージャーになることにしたのだった。バスケ部にしたのは、幼馴染の青峰に頼まれてだった。どうせならおまえがなってくれよ。他の部はやめろよ。そう言われて、仕方なしにバスケ部にしたのだった。赤司は一年生だが、もう副部長をしていた。

桃井は新米なので、失敗も多かった。この前監督と先輩のマネージャーに言われて、レモン漬けを作るように言われて、母にスーパーでサンキストを買ってきてもらって料理サイトを見ながら作ったのだが、レモンを切らなかったので青峰から馬鹿と言われた。

「なんだこれ?切ってねぇじゃん。こんなん食えるか、ブス。」

「ひどい・・・・。」

「うっせーんだよ。食えるもん作って来い。」

すると横から赤司が言った。

「桃井さん、料理部に行って包丁をもらってくるといいよ。僕が切ろう。」

「え・・・・。」

「桃井さんでは無理そうだからね。」

「あ・・・・そんなのいいよ。私が切る切る。」

「そう。日々チームを支えてくれていることに感謝しているよ。」

赤司はそれだけ言うと、向こうに行ってしまった。

「すかしてんな、あいつは。」と、青峰は言った。

「赤司くんは親切なだけだよ。」と桃井は答えたが、悪い気はしなかった。青峰はやはり粗暴だった。しかし青峰とは家が近所なせいもあって、親同士が仲良くしているので、どうしても一緒にいることが多かったのである。その青峰と第二体育館を見回りに行けと言われた。

青峰は面倒そうだったが、暗くなった校舎の間を通る時、先に立って歩いてくれた。第二体育館に着くと、確かに明かりがもれている。扉をおそるおそる開けてみた。

「え・・・赤司くんと・・・・誰?」

桃井は驚いた。知らない学生だった。青い髪の目立たない子だった。赤司はその前に立って何かバスケットの指導をしている最中だった。青峰は言った。

「おまえらこんな時間まで残ってたらどやされんぞ。電気代がかかるから、先公怒りまくるぞ。」

「わかってるよ。」

と赤司は一言言うと、ボールを投げ捨てて外に出て行ってしまった。桃井は不安になった。残ってぽつねんと立っている子に彼女は声をかけた。

「君は?」

「あ・・・・三軍の黒子と言います。赤司くんが、僕に特別指導してくれるって言って・・・。」

「それは監督からの命令?」

「あ・・・・違います・・・・たぶんそうです・・・・・。」

影の薄い子ね、と桃井は思って、思い出した。練習中に体調がすぐれないと言って、保健室に行った部員だった。見るからに弱弱しい印象だった。保健室で吐いたとか聞いた。黒子は言った。

「彼を怒らないでください。僕が彼の薦めで練習していただけなんです。練習したら一軍になれるって言われて。」

青峰は言った。

「何を練習していたんだ?」

「それは言えません。約束だから。」

「あいつとの?」

「そうです。」

黒子はそう言ってうつむいた。やり過ごしたいのね、と桃井は思った。桃井は言った。

「監督には報告しておくから。今後はしないでね。」

「はい・・・。」

と、そこで黒子は言った。

「今度のパステスト、受けさせてほしいんです。監督に進言してください。お願いします。」

そう言って桃井に向かって黒子は頭を下げた。桃井は私の一存ではできないと断り、しかし監督には話をしてみると言った。黒子はうれしそうな顔になった。彼も階層社会に生きていた。そういう縮図の中にいた。

黒子には夢があった。黒子は小学生のころ知り合った少年――荻原シゲヒロという少年と文通し、バスケットの夢を語り合っていた。しかし黒子は一度は監督から、三軍の下位五名に入っているということで、退部するよう勧められたのである。そのショックで公園で泣いたりしていた。自分の夢がつぶされたのである。だが、そんな黒子を赤司は拾い上げてくれた。黒子がスポーツ選手としては珍しいぐらい影が薄いと言い、ミスディレクションの練習をしてくれたのであった。だがそれも後述するが、赤司は古賀とのバスケットの練習を黒子に再現していたにすぎない。しかもそれも赤司にとっては外面上は、試合の戦力になるかもしれないという、非常に冷徹な判断上からのことであった。彼は同じく一軍の緑間に言ったものだった。

「どうして黒子を拾ったのかだって?純粋に戦力になるからだよ。他に理由はないね。」

「本気であんな奴が化けると思っているのか?」

「僕は糸を垂らしただけだよ。登ってこれるかどうかは本人次第だ。」

緑間にはそう言ったものの、赤司自身はやはり黒子が哀れだったからそうしたのだった。きっかけはほんの少しの同情心からだった。そしてそのころ、大人の古賀のようにふるまってみることが赤司には楽しかった。今度は自分が教える立場になれたと思った。そう思った。それは文字通り自分の影を育てているようなことだった。影が自分に歯向かうとは夢にも赤司は思っていなかった。そんなことをしたのも、赤司もこの時期はある計画で気が大きくなっていたのかもしれない。

緑間はそんな赤司に釘を刺すように言った。

「三軍のやつに気を取られて、降格だけはするなよ。」、と――。

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笥(はこ)詰めの恋 10

桃井は今必死で体育館裏手に向かって駆けていた。こっそり選手控室を覗いたが、すでにもぬけの空だった。帰り客の人混みに押されて、前に進めない。「通してください!」人の対流とは逆方向に向かって彼女は進んだ。裏手に大型バスなどの留まるロータリーがあるのはわかっていた。空からの雪は小雨に変わっていた。走って行くと、洛山の選手団の乗る移動バスが停留しているのが見えた。「待ってください!」彼女は大声で叫んだ。そして必死で駆け寄った。赤司らが帰りの手荷物を背に、バスに乗るところだった。桃井は息せききって赤司の前にたどり着くと、封筒を差し出した。「あの・・・・、これ・・・、受け取って赤司くん・・・・。」赤司は心底驚いた。まさか桃井が来るとは思ってもみなかった。見ていた実渕がひやかすように言った。「なになに?まさかラブレター?隅に置けないわね征ちゃんも。」桃井はあわてて言った。「違う違う。昔の写真だよ。赤司くんに持っててもらいたいと思って。部活の最後の時渡せなかったから。」「あら、そうなの?でも今渡すのねぇ~?」と、事情をよく知らない実渕は笑って言った。赤司は桃井に微笑んで言った。「ありがとう、桃井さん。元気?」桃井は大きくうなずいた。「うん、元気だよ。赤司くんも元気出してね。」「うん。」赤司はそれだけ言うとバスに乗り込んだ。バスは雨の中発車した。ロータリーを回る時、桃井が雨の中手を振っているのが見えた。赤司はその瞬間、胸が詰まった。桃井はバスから見えなくなるまで手を振ってくれた。(かあさん。)桃井の姿が、幼い日に自分が、夕日の公園でバスケットゴールの前で遊んでいるのを待っていてくれた母の姿と一瞬重なった。赤司はバスの中で封筒を開けてみた。写真が一枚入っているだけだった。帝光時代の何年かの合宿で撮られたものだった。自分と桃井は両端に分かれて映っていた。黒子は自分の隣にいた。桃井がこの写真を渡そうとした理由が彼にはわかった。中学のあの日を忘れないでおこうと思った。今ならそう思えた。

 

帰りの新幹線では夜だった。列車の窓を眺めながら、いつものように今日の試合内容をしばらく赤司は反芻していたが、やがてやめた。敗因ははっきりしていた。自分の采配ミスだった。その原因となった黛も、後ろの座席で試合の疲れで寝ていた。他の選手たちもいびきをかいて眠っていた。起きているのは赤司だけだった。ふと、彼は車窓の中にこちらをひたと見つめているふたつの小さな眼玉を見つけた。窓ガラスの中だけにそれは映りこんでいる。箱の中の猫の瞳のようだ。ホラーかな、と赤司はなげやりにぼんやりと考えた。やっぱり疲れているんだ。と、その時赤司の心の中に何者かが語りかけてきた。負けちゃったけどよかったね・・・・桃井さんはもし君が勝っていたら、その帝光時代の写真は郵送ですませちゃったかも・・・そうならなかったでしょ・・・・負けちゃってよかったね・・・・。赤司は「彼」だとすぐにわかった。消えろよ、と彼は心に強く念じた。瞳はぴりっと震えてすぐに瞼を閉じた。暗い窓の中には何もいなくなった。列車が長良川の鉄橋にさしかかったときだった。続いて畑の中の踏切を通過し、試合開始の時のホイッスルのように、列車の警笛が高く鳴り響いた。

 

完・2017年6月8日脱稿